”Welcome to kaisan's room”

2017年 地域情報

かいさんのバスツアー

東北さいはて三大半島巡り

2日目 5月25日(木)晴曇

ホテル(8:00) ==白神山地十二湖(10:30/11:30)==十二湖駅(11:50/12:13)🚝🚝五能線🚝🚝 深浦駅(12:44/12:50) 

== 深浦・昼食(13:00/13:40) == 鯵ヶ沢==<十三湖>==龍<迫ライン>==津軽半島(16:30/17:10) 

 == 浅虫温泉(19:00)(泊)

 

6:00男鹿半島の温泉郷「セイコーグランドホテル」の近くの
海辺まで散歩にでかけ  
散歩中に出会った標柱があったので立ち寄った。説明文には「昔、中里といって5,6軒の
家があったが、ある年、鮫漁に出て、シケで船が転覆して、村〇〇ため村も滅んで畑となった。
今も陶器などが土中からでるが.地名ばかりが残った。帰ってWebで調べたのが下記

菅江 真澄
(すがえ ますみ、宝暦4年(1754年) - 文政12年7月19日1829年8月18日))は、
江戸時代後期の旅行家、博物学者。生まれは、三河国渥美郡牟呂村字公文(現在の
豊橋市牟呂公文町)と伝えられる。
二輪の花がくっ付き一つになっていたのでゲット。
伝説と効き湯の郷 男鹿温泉郷

昨夜はこの近くで地域の若者で結成している「和太鼓ライブに出かけた。
ナマハゲと一体となった演奏は迫力がありました。
   
この日は大潟村の干拓地を車窓からガイドさんの説明を聞き見学です。
道路も広く長いが、田園の広さ大きさにはびっくりしました。
 
webサイトから干拓工事の歴史的なものを掲載しておきます。

食糧不足が大きな問題であった昭和27年、農林省は食糧の自給率を上げるため、食糧増産5カ年計画を策定しました。その計画では干拓事業が重要項目であり、「可知案」などの八郎潟干拓計画が検討されました。しかし当時、日本各地で行われていた干拓事業は規模が非常に小さく、技術不足と予算不足により工事が進みませんでした。特に難しかったのは、軟らかい地盤上に堤防を築くことでした。当時の吉田茂首相は干拓事業に強い意欲をもっており、この問題の打開策としてオランダからの援助を考えたのです。
  
昭和28年8月、政府は農林省の担当者をオランダに派遣しました。交渉の結果、
オランダとの間で、デルフト工科大学のヤンセン教授とアシスタント1人を日本に派遣することに合意したのです。 
昭和29年4月、ヤンセン教授とフォルカー技師が来日し、秋田を訪れました。
一行は八郎潟を視察した上で、地形や気象、様々な干拓計画など、膨大な資料を調査研究し、
同年7月に「日本の干拓に関する所見」通称「ヤンセンレポート」を日本政府に提出したのです。
ヤンセン教授の計画は、日本人の干拓計画を改善したものであり、
①東部承水路の幅を広げ、八郎潟南部に遊水池を設けること、
②海よりも高く水位を保ち、潅漑用水としても使うこと、
③日本海にショートカットした水道を掘削すること、
④湖岸地先に小規模の干拓地を設けて農地を造成すること、でした。
現在の八郎潟干拓事業の原型が、ここに初めて示されたのでした。
秋田県内に入り五能線沿いの国道101号線を北上し、白神山地十二湖を目指す。
10:30白神山地森の博物館キョロロ駐車場に到着後待っていたガイドさんの案内で
新緑の森林の中に入っていく。
青池など見学コースを回り
ガイドさんが珍しいと言って指をさした花は「ウスバサイシン」という名で
地面すれすれに咲いているので素人の私は目にもつかない花でした。
11:50無人駅十二湖駅では我々の団体の他もいて、空で来た2両編成の列車
は超満員!
深浦駅までの車窓を楽しむ。

13:00深浦町で昼食メニューは鮭のチャンチャン焼き
15:20十三湖で一休みし、肌寒くなってきたので名物シジミ汁を頂く。
何時しか国道339号線龍泊ラインを通り車窓から綺麗な七つ滝をゲット。
16:30津軽半島の最北「竜飛崎」へ!
津軽海峡を見下ろしているのはレーダー設備か!
防衛省の関係職員が巡視に来ているようでした。
眼下に見えるのは青函トンネル工事中は賑わいを見せていたのだろうか?
効くところによると小学校まであったそうです。
当時を思い起こせるのは大きな標示で
「青函トンネル本州方基地竜飛」でした。
日本唯一の階段国道339号線
階段数362段、全長388.2m、標高差70mだそうです。
19:00浅虫温泉「ホテル秋田屋」が今日のお宿です。

遅く着いたのですぐ夕食です。
メニューはむつ湾で撮れた海の幸膳です。